色々思うお年頃。

今日は珍しく、お仕事でお出かけ。

某カフェに11時から17時までいましたw

途中、人と用事は変わりましたが、言えるのはとても充実した時間だった、ということ。

ここ数年の私は、2度と付き合わないだろうなという別れ方をした人が少なくありません。

喧嘩をしたわけではなくて、感情的なやりとりがあったわけでもなくて、ただ、「もうこの人とは2度と関わらないな」と知ってしまって、やはりその通りになっている、だけです。

だから恨んだり憎んだりというわけではなくて、ちょっぴり残念で悲しいだけ。

悲しいけれど、ほんの一時であっても、楽しい時間を過ごしてくれてありがとうと心の中でお別れを言って、その人は過去の友達になります。

その一方で、新しい出会いもあります。

もしかしたら、その新しく出会った人も一時だけの友達で、またそのうち違う道を行くことになるのかも知れない。

それでもいいと思うんですね。

私が、相手が、短い時間でも楽しかったね、と言える時間を過ごして、そこからお互いに何かしらを学べたのなら、意味があると思うからです。

それがポジティブなことでも、ネガティブなことでも、学び自体はプラスだから。

昨年末に母が亡くなって、とにかく私のことが気に入らなかった母に、自分のこをわかってもらいたかったり、腹を立てたりという気持ちがすっかり消えていきました。

亡くなったと聞いてすぐに連絡をした娘に私が言ったのは

「おばあちゃん、とうとうマミのこと何も理解しないまま死んじゃったね」

でした。

それから警察で母の遺体を確認し、お葬式を終え、家を片付け、他のいろいろな手続きを終え、後はまだマンションの処分と納骨がありますが、私が自ら動かなければいけないことはもうそう多くありません。

面倒だったし大変でしたが、ひとつひとつ片付けるうちに、いろんな気持ちが整理されていったように思います。

母が亡くなってちょうど1ヶ月経った今年の1月15日、「そういえば今日が初めての月命日だな」と気づいてお線香を焚いていた時、ふと、もう母はこの世にいないとわかりました。

それまでは、私と娘がいるところや、お葬式の時にも、母の気配がしていました。

お葬式が終わって自宅に夫が1人帰宅した時にも、あり得ない場所で人影を見ていて、夫は「あれはお義母さんだったと思うよ」と言います。

そしてちょうどその1月15日の朝、娘が夢を見ていたそうです。

父と長く暮らした、娘も帰国といえば当然のように帰った、今はもう無い家で、母と話している夢だったそうです。

私と妹たちも、口は開かなかったものの、そこにいたとのこと。

その時の会話を聞いて、ああやっぱり母はこの世を離れて、行くべきところに行ったんだな、とわかりました。

私はとても気持ちが楽になり、私が母にとって物足りない娘でも、満足させてあげられなかったとしても、もうそれでいいわ、と心から思えるようになりました。

私は私でこれまでやれることをやれるなりにやってきて、そのことは誰に何を言われるようなことでもないし、特に胸を張れることもないけれど、下を向かなければいけないこともない。

私は私でいいと、来年還暦を迎える年齢になって、母が死んで、初めてそう思えることになったことが悲しむべきことなのか、喜ぶべきことなのかは正直わかりません。

わからないけれど、今、私は私で、今までも私はずっと私で、誰に何を言い訳することも説明することも嘘をつかなくてもいいことに穏やかな気持ちでいる、それが今、この時点での本当の気持ちです。

これからも、ただ自分の正しいと思うことをやっていくだけ。

というわけで、これからも変わらずがん患者さんサポートと、スピリチュアルヒーリングを淡々とやっていこうと心に誓う私なのでした。

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